原子力発電所の使用済燃料を再処理して取り出したプルトニウムを普通の原発(熱(=サーマル)中性子炉)で使うというプルサーマルが推進されようとしています。原子力委員会が1956年以来ほぼ5年ごとに発表してきた『原子力の研究、開発および利用に関する長期計画』(長計)を見るとプルトニウムは、簡単に開発できるはずの「高速増殖炉」で使うことになっていたのが分かります。プルサーマルは、夢の実現までの期間に再処理で生み出されてしまうプルトニウムを当座消費するための案としてでてきたものでした。しかし、発電しながら使った以上のプルトニウムを作り、無尽蔵のエネルギー源となるというこの夢の原子炉の実現予想時期はどんどん遠ざかっています。そして頼みのプルサーマルも進んでいません。「当座」がどんどん長引いている中で、核兵器の材料になる物質のこれ以上の蓄積を防ぐために取るべき措置は、プルトニウムの取り出し中止、つまり、再処理中止以外にありません。
位置づけ | 実験炉 | 原型炉 | 実証炉 | 実用化 | 原子力発電予測 | |
1956年 | わが国の国情に最も適合 | 出力ゼロ実験炉を設置 | ||||
1961年 | 自立体制を取った場合不可欠 | 1960年代末まで | 1970年代後半以降 | |||
1967年 | 将来の原子力発電の主力 | 1970年まで 10万kWth | 1975-80年 20-30万kWth | 1985-90年 | 1975年600万kW 1985年3-4000万kW |
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1972年 | 将来、原子力発電の主流 | 1974年 10万kWth *1977年常陽臨界 | 1978年 30万kWe | 1985-95年 | 1985年6000万kW 1990年1億kW |
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1978年 | 将来の発電用原子炉の本命 | 1985-90年 30万kWe | 1990-95年 | 1995-2005年 | 1980年3300万kW 1990年6000万kW |
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1982年 | 将来の原子力発電の主流 | 1990年もんじゅ臨界 28万kWe | 1990年代初め頃着工 | 2010年頃 | 1990年4600万kW 2000年9000万kW |
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1987年 | 将来の原子力発電の主流 | 1992年もんじゅ臨界 *1994年4月臨界 | 1990年代後半に着工 | 2020年代-2030年頃 | 2000年5300万kW 2030年1億kW |
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1994年 | 将来の原子力発電の主流 | 1995年末本格運転 *1995年12月ナトリウム火災事故 | 2000年代初頭着工 66万kWe トップエントリー方式ループ型炉 | 2030年頃まで | 現時点 3837万kW 2000年4560万kW 2010年7050万kW |
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2000年 | 将来のエネルギーの有力な選択肢 | 高速増殖炉サイクル計画の中核として、早期運転再開を目指す | 種々の成果等を十分に評価した上で、具体的計画の決定 | 柔軟かつ着実に検討 | 現時点 4492万kW | |
2005年 | 将来における核燃料政策の有力な選択肢 | 10年程度以内を目途に「発電プラント」としての信頼性実証とナトリム取扱技術確立 *05年9月改造工事着工08年試運転目指す | 商業的導入に至るまでの段階的な研究開発計画について2015年頃から国として検討 | 2050年頃から商業ベースで導入 | 現時点 4700万kW 総発電電力量の3分の1 2030年以後も 総発電電力量の30-40% |
表1から明らかなように、高速増殖炉実用化の時期は、1961年の第2回長計で、十数年先だったものが、回を経るごとに、二十数年先、三十数年先と次第に遠ざかり、2005年の原子力政策大綱では、45年先の2050年頃となっています。これが予定通り実現されたとしても、第一回長計発表の時点からすると100年ほど先ということになります。
元々、各国が高速増殖炉に夢を託そうとしたのは、ウラン資源が非常に希少で、しかも、原子力発電が世界的に急激に伸びると想定したためでした。この想定が誤っていたことは、1970年代には明らかになっています。米国が再処理・高速増殖炉方針を捨て、核拡散防止の観点から日本にも同様の政策をとるよう働きかけ、東海再処理工場の運転をあきらめさせようとしたのはそのためです。
プルトニウムを急いで取り出す必要がないとすれば、原子力発電を進める立場からは、原子炉からでてくる使用済燃料を置いておく場所の確保をする必要があります。すなわち、敷地内貯蔵能力を増強するか、敷地外中間貯蔵所を設けるか、その両方の措置を講じるかです。この単純な考えを採用せずに、必要もない再処理を推進してきた様子を示したのが、表2です。(この結果、日本は、43トン以上のプルトニウムを国内外に保有することになってしまいました。)
方針 | 第1再処理工場 | 第2(民間第1) | 第3(民間第2) | 海外委託 | 年間使用済燃料排出量予測 | |
1956年 | 初期は日本原研 | 原子燃料公社 | ||||
1961年 | 原子力発電規模増大した段階においては国内で | 前期10年後半パイロット施設 | ||||
1967年 | 国内で行う原則。 | 原子力燃料公社による建設開始 | 1985年頃には1000tの処理能力必要。民間で建設 | 1980年頃処理能力越える。1985年頃1000t/年程度の再処理能力必要 | ||
1972年 | 燃料安定供給・安全確保に重要。新型炉に不可欠。国内が原則。 | 動燃施設1974年操業開始。最大210t/年。 | 国内原則。民間で。 スケールメリットを生かすことが重要。 | *1974年英国核燃料公社のオファー | 1977年に処理能力越える。1980年に700t/年、1990年に2600t/年。 | |
1978年 | ウラン資源に乏しいわが国に不可欠。国内が原則。 | *1977年ホット運転開始 | 大規模施設を建設。1985年頃運転開始 | 第2工場運転までの措置*注 | ||
1982年 | 自主性の他廃棄物の適切な管理・処分にも重要 | 1200tの民間工場。1990年頃運転。 | 将来の需要への対応は今後検討 | 現状は大部分を海外で対処 | 1990年1000t/年。2000年2300t/年。 | |
1987年 | 自主性確保ため、原則、国内で。エネルギー安定供給。廃棄物の適切管理 | 六ヶ所村工場。800t/年。1990年代半ば運転 | 民間第2、2010年頃運転開始。 | 内外の諸情勢を勘案、慎重に対処 | ||
1994年 | 自主性確保ため、原則、国内で。 | 2000年過ぎ運転。 | 使用済MOXにも対処必要。2010年頃技術/能力の方針決定。 | 内外の諸情勢を勘案、慎重に対処 | 2000年800-1000t/年、2010年1000-1500t/年、2030年1500-2300t/年。 | |
2000年 | 供給安定性の向上、原子力の長期供給を可能に。 | 2005年操業開始。六ヶ所工場の能力を超えるものは、発電所内または2010年以降中間貯蔵で貯蔵 | 2010年頃から検討開始 | 2010年頃までにプルトニウム回収。順次返還。30t(核分裂性) | ||
2005年 | 供給安定性の向上、原子力の長期供給を可能に | 2007年操業開始。核拡散抵抗性の高い混合転換技術採用。**注 | 国際的動向などを踏まえ2010年頃から検討 |
*注 仏核燃料公社(コジェマ)および英核燃料公社(BNFL)と、それぞれ、1977年と78年に、計3600tの再処理委託契約。1982年から約10年の分。その後の追加分あわせて2社と5600tの契約。このほか東海のガス炉分1500tについて英国と契約。BNFLとは、1974年のオファー以前に、東海原子力発電所(ガス冷却炉)および敦賀原子力発電所の使用済燃料の再処理委託契約があった。
**注 六ヶ所工場では、東海再処理工場と同様、プルトニウムとウランを1対1で混ぜたもの(混合酸化物=MOX)が製品としてでてくる。(MOX燃料を作るにはこのMOXにさらにウランを混ぜる。)再処理推進派は、方式では、プルトニウムが単体ででてこないから核拡散につながらないという。だがこの混合酸化物は、強い放射能を持つ死の灰を取り除いたものだから、簡単な化学処理でプルトニウムとウランを分離できる。
この政策の誤りのため、各地の原子力発電所の貯蔵能力の限界が迫ってきており、貯まっている使用済燃料の搬出先は、六ヶ所再処理工場の受け入れ貯蔵プールしかないという状態になってしまいました。このプールが使用できるようにするために、中に入っている使用済燃料を工場に移して再処理しようと言うのが現在の再処理推進策の理由です。そして、取り出されたプルトニウムがまた貯まることについての世界的批判を免れるために、何とか各地の原発で消費できているとの印象を与えようというのがプルサーマル計画の推進の理由です。
小手先で原発敷地内の貯蔵能力を若干増強する措置がとられてきましたが焼け石に水です。また、2010年から敷地外中間貯蔵所を作る計画が出されていますが、それは、なんと六ヶ所再処理工場の運転を前提にしたものになっています。2005年原子力政策大綱では、そこに貯蔵される使用済燃料の「処理の方策は・・・2010年頃から検討を開始する」となっています。ところが、東京電力と日本原子力発電が青森県むつ市に作ろうとしている中間貯蔵所の受け入れ同意を2005年10月19日に表明した三村申吾知事は、同日の記者会見で、第二再処理工場の検討に向けた技術研究開発への取り組みを関係閣僚から確認できたことを同意の理由の一つに挙げ、
なんと言っても全量再処理が(事業の)前提であることが重要。むつ市に使用済燃料が永久に置かれることがあってはならない。
と述べています。中間貯蔵所建設が、六ヶ所の次の再処理工場建設への圧力になっているのです。
このような悪循環を断ち切るために原子力委員会・政府がやるべきことは、夢が夢で終わっていることを認め、政策の変更に必要な措置について真剣に検討することです。もし、再処理をするとすれば、「夢」が実現するという50年先まで待ってからのことでしょう。
(再処理ででてくるゴミにせよ、使用済燃料自体をそのままゴミと見なすにせよ、その最終的な行く先が決まっていないことは同じです。)
初期の2回の長計を見れば、高速増殖炉と再処理、プルサーマルの関係は明らかです。
第一回長計(1956年)は、無邪気に夢の高速増殖炉の国産の目標を語っています。
わが国における将来の原子力の研究,開発および利用については,主として原子燃料資源の有効利用の面から見て増殖型動力炉がわが国の国情に最も適合すると考えられるので,その国産に目標を置くものとする。
再処理でプルトニウムを取り出して、それを高速増殖炉で使うという方針です。「夢」はすぐにも実現しそうな勢いで、これこそ日本の道だというわけです。
ところが第2回長計(1961年)では、情勢が変わったことを次のように説明しています。
第3は,原子力開発利用を実用化するために克服しなければならない技術的問題の復雑さが,研究開発の進展に伴い次第に明らかになったことである。特に核燃料サイクルの自立体制をとった場合,不可欠の要素であると考えられた高速中性子増殖炉についても,その後の研究開発の進展に伴いまだ技術的困難が多いことが明らかとなり,これを解決し実用化にもっていくためには,従来考えられた以上の研究開発期間を必要とするとみなければならなくなったことである。
この時点で、高速増殖炉の実用化の時期は、1970代後半以降となります。そして、この長計は、発表時点から先の20年を前期と後期にわけて、プルサーマルの必要性を次のように論じています。
(5)プルトニウム利用の見通し
前期および後期を通じて原子力発電の開発が発展すれば生成されるプルトニウムは,相当の量に達するものと推定される。
プルトニウムの燃料としての利用は,高速中性子増殖炉に使用される場合が最も有利であると考えられるが,技術的な困難が多く,その実用化は,海外諸国においても後期10年の半ば以降とみられるので,プルトニウムの濃縮ウラン代替利用に関する研究開発をすすめる。さらに,将来プルトニウムを使用する高速中性子増殖炉に関する技術を開発し,わが国において合理的な燃料サイクル系が確立されることを期待する。
この後の長計も、高速増殖炉を、「本命」「主流」と呼び続けます。1995年の高速増殖炉実験炉「もんじゅ」が、ナトリム火災事故で運転停止となってしまった状況の中で、第9回長計(2000年)は、高速増殖炉を「将来のエネルギーの有力な選択肢」と呼び変えました。第10回の原子力政策大綱(2005年)でも、「将来における核燃料政策の有力な選択肢」となっています。
呼び名は変わったものの、1956年に定められた方針が現実を無視したままで変わることなく続けられているのは同じです。そして、1961年にひとまず取るべき策として出されたプルサーマルが、45年遅れで今実施されようとしているのです。
再処理・プルサーマル推進派の人々は、やたら「不退転の決意で取り組んでまいります。」と決意を語っています。これを聞くと、「真珠湾攻撃」や「インパール作戦」という言葉が頭をよぎります。現実を見つめた政策変更が必要です。
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