核兵器リビア
2004.3.16

リビアの核開発に関するIAEA事務局長報告(2004年2月20日付け)

IAEA理事会は、3月10日、リビアが昨年12月19日に大量破壊兵器計画を放棄すると発表し、IAEAの査察・検証を求めたことを歓迎する決議を採択しました。(pdf)3月8日からの理事会用に作成されたIAEA事務局長報告『社会主義人民リビア・アラブ国におけるNPT保障措置協定の実施状態』GOV/2004/12(2004年2月20日付け)(pdf)の要点を整理しておきます。

昨年12月19日、リビアが化学・生物・核兵器計画を放棄すると発表したのを受けて、IAEAのチームが、12月27−29日と2004年1月20−29日、2月16−19日にリビアを訪問し査察活動を行った。報告書は、リビアが「核物質、施設、活動(とりわけ濃縮に関連したもの)、そして、核兵器の設計・製造に関する文書について報告しなかったのは、極めてゆゆしきことである」としながら、昨年末以来積極的に協力しオープンな姿勢を示していることを評価している。

リビアは、英米両国との協議の結果、機微な設計情報、核兵器関連文書、申告していなかったウラン濃縮用機器のほとんどを、IAEAの検証措置・手続きに従うことを条件として、米国に送ることに合意しているとIAEAに説明した。


2003年12月20日までに申告していたもの

1980年7月8日に発効したIAEAとの保障措置協定の下でイランはつぎのものを申告していた。

施設

核物質


申告していなかったもの

1980年代初めから2003年末まで、リビアは上記の他にさまざまな核物質を輸入し、さまざまな活動を展開していた。だが、リビアは、TNRCを含む12の施設で行われていたつぎのような活動・設計情報などをIAEAに申告していなかった。

1)核物質の輸入

ウラン精鉱(UOC=イエローケーキ)

1978−81年
合計2263トン うち、1981年の1000トンは申告
 残りは、保障措置発効の1980年以前のもの
 貯蔵場所 Sabha (サイトF)  文書不足で検証困難
1985年に
ウラン精鉱の一部を輸出 輸出先国で転換するため 量不明

輸出したウラン精鉱を転換した化合物の逆輸入

1985年にウラン精鉱を受け入れた国からつぎの形に転換された天然ウラン化合物が返還された

UF6

2000年9月
小さなシリンダー 2本 天然ウラン及び劣化ウラン
 2001年2月
大きなシリンダー 1本 1.7トン 低濃縮 U235 1% これらは、検証して、運び出した。リビアは輸入先を明らかにしていない。

主として溶液状のウラン化合物

2002年
別の国から 化学実験室のスタンダードとして使うため

2)ウラン転換

タジュラ原子力研究センター(TNRC) 

1980年代に実験室規模及びベンチスケールのウラン転換実験を実施
 輸入ウラン精鉱を使用。他の輸入ウランも使った可能性も。
  うち22kgの天然ウランについては検証ずみ。
  タジュラにあると新しく申告されたものについては、これから検証。

パイロット規模ウラン転換施設(UCF) 

1984年
外国からパイロットスケールのウラン転換工場を注文
1986年
モジュールを受け取る
1998年まで
トリポリ周辺各地でモジュールを保管
1998年
Sawani(サイトG)に移動して一部組み立て。 その後Al Khalla(サイトc)に移動して、ウラン転換施設(UCF)を作る。
2002年2月
最初のコールドテスト
2002年9月
UCFを再度移動。保安上の措置
2003年3−10月
UCF解体。Salah Eddin(サイトd)に移動。 ほとんどのモジュールが現在ここに保管されている。
*このUCFではウランを使った処理実験は行っていないと、リビアは説明。
年間30トンのウランの処理能力 UF4とUO2、ウラン金属に転換するもの。
UF6の能力はない。

3)ウラン濃縮

経緯:リビアの説明は以下の通り。 

1980年代初め
一人の外国人専門家がリビアの技術者の協力を得て、持ってきた設計を使って、タジュラでウラン濃縮の研究・開発を開始。
1992年頃
外国人専門家去る。この段階で、遠心分離器の製造に成功していない。
1995年7月
リビア、遠心分離器も含め核活動を活性化する戦略的決定

L−1 (ヨーロッパ起源のG1あるいはP1と呼ばれれるものと同じ古い設計

1997年
外国のメーカーが組み立て済みのL−1を20台と200台分の部品提供。
20台のローターのうちの1台を使ってで完成品1台を組み立て。
場所:Al Hashan(サイトA)
2000年10月
実験成功。
2000年末
9台型、19台型、64台型のカスケードをサイトAで設置開始。
2002年4月
9台型完成。19台型もほぼ同様の状態。 保安上の理由から分解。Al Fallah(サイトB)に移動。

L−2 (L−1より進んだ型。アルミではなくマルエージング鋼(超強力鋼)を使用) 

2000年9月
Lー2型遠心分離器を2台受け取る。 最初5000台注文。後にこれを1万台に拡大。 別の国で製造。
2002年12月
に大量に到着し始める。
2003年10月初め
遠心分離器関連の機器を輸送中の貨物船が拿捕。
地中海北部の港
2003年12月
のIAEAの査察までに、ケースが相当到着。

国内製造の計画

 遠心分離器の部品はすべて外国で製造。
 国内製造を目指して、相当の規模の精密機械施設を購入。現在Janzour (サイトE)にある。
 マルエージング鋼と強化アルミ合金を入手している。
 外国の複数の場所で、少なくとも3回、リビア人スタッフの製造技術習得の訓練。

4)核物質の照射・再処理

1984−90年にグラム規模の小さなウラン酸化物/金属ウランのターゲット数十個を製造。タジュラ研究炉で照射。主として、分裂生成物を作るため。

プルトニウム

 少なくとも、二つのターゲットからごく少量のプルトニウムを分離したと説明。

5)核兵器化

「リビアは、外国から核兵器の設計と製造に関する文書を受け取ったと認めた。リビアに存在するのは、これらの文書だけだとリビアは述べた。しかし、リビア当局は、IAEAの2003年の訪問前に、コピーを2組作って、英国及び米国に提供したと述べた。」

「リビアは、文書にある情報の信頼性を評価したり、その実際的有用性を検討したりするための措置を講じなかった。」「データを評価する能力を持ったリビア人スタッフがいなかった。核兵器を開発するためにさらに歩を進めることになれば提供者の協力を扇ぐつもりだったとリビアは述べた。」

2001年末か02年初め
文書類を入手
2003年12月31日
IAEAが文書を封印。
2004年1月20日
IAEA専門家が文書を検討。その後再度封印して米国へ。

文書の中身